【糖尿病】HbA1c15.4からの再出発

HbA1c15.4から6.0へ。回復までのリアルな記録。

目標がなくなったあと、何を基準にするか

目標があった頃のわかりやすさ

数値を下げる、状態を安定させる。
そうした目標がはっきりしていた頃は、日々の判断が比較的わかりやすかったように思います。

良いか悪いかは数値が教えてくれる。
その基準に沿って生活を調整することで、前に進んでいる感覚もありました。

緊張感はありましたが、同時に、迷いは少なかった気がします。
向かう先が決まっていると、人はそれだけで動けるものです。

目標が消えたあとの戸惑い

数値が落ち着き、大きな課題が見えなくなったとき、
ふと立ち止まる瞬間がありました。

何かを達成した実感はあるのに、次に掲げる目標が浮かばない。
この状態は、想像していたよりも静かで、少し手応えがありませんでした。

頑張る理由がなくなったわけではない。
ただ、何を指標にすればいいのかが、急にわからなくなったような感覚でした。

新しい目標を探そうとしていた

最初は、自然と次の目標を探そうとしていました。
数値をさらに良くする、もっと整った生活を目指す。

けれど、そのどれもが、どこか無理をしているように感じられました。
以前のような切迫感もなく、必要性もはっきりしない。

目標を持つこと自体が目的になってしまうと、
かえって今の状態から離れてしまうような気がしました。

基準は、変化ではなく感覚だった

しばらく考えて気づいたのは、
目標の代わりに、基準を持てばいいのではないか、ということでした。

良くなったか、悪くなったかではなく、
「無理がないか」「極端に偏っていないか」。

数値ではなく、自分の感覚に近いところで判断する。
それは曖昧ですが、今の状態には合っているように感じました。

調子がいい日を、特別扱いしない

基準を感覚に置くようになると、
調子がいい日も、あえて特別には扱わなくなりました。

良い日が続くと、つい何かを積み上げたくなります。
けれど、その勢いが、後の疲れにつながることもあります。

今は、良くても淡々と、
悪くても必要以上に引きずらない。

その中間を保てているかどうかが、
一つの目安になっています。

何もしない日も含めて考える

目標があった頃は、何かをしていない日が気になっていました。
記録しない日、意識しない時間。

今は、それらも含めて日常だと捉えています。
何もしない日があるから、続いていく。

基準を厳しくしすぎないことも、
今の自分には大切な要素です。

立ち位置を確認するための基準

目標は、前へ進むためのもの。
基準は、今どこに立っているかを知るためのもの。

そう考えると、目標がなくなった今も、
何も失ってはいないように思えてきました。

大きく前進しなくても、
大きく後退していなければいい。

その確認ができていれば、
日々は十分に成立しているのだと思います。

今の私にとっての答え

目標がなくなったあと、何を基準にするか。
今の私にとっての答えは、とても控えめなものです。

無理が続いていないか。
関心が完全に途切れていないか。
日常が、日常として回っているか。

その程度の確認で、今は十分だと感じています。
目標がなくなったからこそ、
ようやく見えてきた基準なのかもしれません。

 

卒業しても、糖尿病はそばにある

卒業という言葉に感じた違和感

ある時期を過ぎると、「もう大丈夫ですね」「一区切りですね」と言われる場面が増えてきました。
その言葉を聞いたとき、安心よりも先に、少しだけ引っかかる感覚がありました。

卒業という言葉は、何かから完全に離れる印象があります。
学校を卒業するように、役目を終えて次へ進む。
けれど、糖尿病との関係は、その形には当てはまらないように感じていました。

数値が落ち着いたあとに残るもの

数値が安定し、生活も大きく崩れなくなると、緊張感は自然と薄れていきます。
以前のような切迫感はなくなり、日常は静かに回り始めます。

それでも、何もなくなったわけではありません。
意識の奥に、常に小さな存在感が残っている。
それが、今の糖尿病との距離感でした。

そばにある、という感覚

糖尿病が「ある」か「ない」かで考えると、どうしても重くなります。
けれど、「そばにある」と考えると、少し現実的になります。

四六時中考えているわけではない。
でも、完全に忘れているわけでもない。

視界の端に置いてあるような存在。
必要なときには目を向け、普段は意識の外に置いておく。
今は、そんな関係に近づいている気がします。

卒業したのは、追い込まれていた時間

振り返ってみると、卒業したのは糖尿病そのものではなく、
追い込まれていた頃の自分だったのかもしれません。

常に不安で、数値に一喜一憂して、失敗を責めていた時間。
その状態からは、確かに距離を取ることができました。

それは前進でもあり、変化でもあります。
ただ、病気が消えたわけではない。その違いは、はっきりしています。

忘れないけれど、縛られない

そばにあるものは、扱い方次第で重さが変わります。
無視しようとすれば、かえって気になりますし、
抱え込めば、生活全体が固くなってしまいます。

今は、忘れないけれど縛られない、という位置に落ち着いています。
意識しすぎず、遠ざけすぎず。
その曖昧さが、かえって続きやすいと感じています。

日常の中で続いていく関係

特別な出来事がなくても、日常は続きます。
買い物をして、食事をして、眠って、また朝を迎える。

その流れの中に、糖尿病は静かに存在しています。
主張はしないけれど、完全に消えることもない。

その現実を受け入れることは、諦めとは違う感覚でした。
むしろ、力を抜いて向き合えるようになった、と言ったほうが近いかもしれません。

卒業という言葉の、別の意味

卒業という言葉を、完全な終わりではなく、
関わり方が変わる節目として捉える。

そう考えると、今の状態もしっくりきます。
過剰に恐れず、過剰に期待せず、静かに付き合っていく。

糖尿病はそばにある。
それを前提にした生活は、思っていたよりも自然でした。

今の立ち位置として

今の私は、「治った」とも「何も変わっていない」とも思っていません。
変わった部分と、変わらない部分が、同時に存在しています。

卒業しても、糖尿病はそばにある。
その事実を、重くも軽くもせず、ただ認識している。

その距離感が、今の自分にとっては現実的で、続けやすい形なのだと思います。

管理されない生活は、想像以上に現実的だった

管理という言葉が先に立っていた頃

体調や数値の話になると、いつも「管理」という言葉が頭に浮かんでいました。
管理された生活、管理できている日常、その反対側にあるのが、崩れた状態のように感じていたからです。

どこかで、管理されていない生活は危うく、現実的ではないものだと思っていました。
感情に流され、行き当たりばったりで、結果的にうまくいかない。
そんなイメージを、はっきりと持っていたように思います。

思ったよりも、日常はそのままだった

ところが、実際に管理という意識が少し緩んだ生活を送ってみると、想像していたほど極端な変化はありませんでした。
朝は朝として始まり、夜は夜として終わる。
やることは大きく変わらず、生活そのものは淡々と続いていきます。

何も考えずに過ごしているわけではありません。
ただ、常に頭の片隅で計算している状態から、一歩引いたような感覚です。

「管理をやめた」というより、「管理という言葉から距離を取った」
それに近い状態だったのかもしれません。

数値よりも先に動く日常

以前は、数値が基準になっていました。
良ければ安心し、悪ければ立て直そうと考える。その繰り返しです。

管理されない生活に近づくと、順番が少し入れ替わります。
先に日常があり、数値は後から確認するものになる。

それによって、生活が振り回されにくくなった感覚がありました。
数値を軽く見ているわけではなく、主役を入れ替えただけのような印象です。

きちんとしない時間の存在

管理を意識していた頃は、「きちんとしない時間」に罪悪感がありました。
予定通りでない食事、だらっと過ごす夜、何も記録しない日。

けれど、それらを完全になくすことは、現実的ではありません。
むしろ、そうした時間があるからこそ、生活は続いていくのだと感じるようになりました。

管理されない生活には、余白があります。
その余白が、思っていた以上に大切でした。

崩れなかった理由を考える

管理を緩めたからといって、すぐに状態が崩れたわけではありませんでした。
その理由を考えると、これまで積み重ねてきたものが、完全には消えていなかったからだと思います。

意識していなくても、体が覚えている感覚。
極端な方向に行きにくくなっている判断。

それらは、管理の結果というより、時間の結果なのかもしれません。

管理しないことは、放置ではなかった

管理されない生活と、放置された生活は、似ているようで違います。
前者には、最低限の関心が残っています。

何かあれば立ち止まる余地があり、戻る場所もある。
完全に見ないふりをしているわけではありません。

この違いに気づいてから、管理という言葉に対する構えが少し変わりました。

現実的だったという実感

管理されない生活は、想像していたよりも現実的でした。
完璧ではなく、揺れもあり、少し雑な部分も含んでいます。

それでも、続いていく。
無理なく、極端にならず、日常として成立している。

その事実は、自分にとって意外で、同時に安心できるものでした。

今の立ち位置として

今は、管理するかしないか、という二択では考えていません。
必要なときに目を向け、普段は少し距離を取る。

そのくらいの関係性が、今の自分には合っているように感じます。
管理されない生活は、決して理想的ではないかもしれません。

けれど、現実として続けられる形であること。
それが、今の私にとっては大切な要素です。

再出発の次に来たのは、静かな継続だった

再出発のあとに残った空気

再出発という言葉には、どこか区切りの強さがあります。
何かを終えて、改めて始める。そのような印象を持っていました。

けれど実際には、再出発の直後に待っていたのは、大きな変化でも強い決意でもありませんでした。
残っていたのは、前日とほとんど変わらない朝の空気と、いつも通りの一日でした。

少し拍子抜けするようでいて、同時に安心感もありました。
何かを劇的に変えなくても、時間は静かに流れていく。その事実を、あらためて感じていました。

意識が高まったわけではなかった

再出発したからといって、気持ちが常に張りつめているわけではありません。
むしろ、意識は以前よりも穏やかになっていました。

「ちゃんと続けられているだろうか」と強く問いかけることもなく、
「今日はどうだったか」と淡々と振り返る程度です。

この変化は、自分でも少し意外でした。
気合いが入るのではなく、余計な力が抜けていく感覚に近かったからです。

継続は、目立たない形で進んでいく

継続という言葉は、地味です。
成果がすぐに見えるわけでもなく、誰かに評価されることもほとんどありません。

日々の選択は小さく、振り返らなければ記憶にも残らないことが多いです。
それでも、同じような一日が重なっていくことで、状態は保たれていきます。

特別なことをしている意識はありません。
ただ、極端に外れないように気を配り、戻る場所を忘れないようにしているだけです。

不安が消えたわけではない

静かな継続の中でも、不安が完全になくなったわけではありません。
数値を見る前の緊張感や、体調の変化に対する戸惑いは、今もあります。

ただ、それらに振り回される時間は短くなりました。
不安を感じても、以前ほど深く沈み込まず、そのまま日常に戻ってこられるようになった気がします。

不安を消そうとしないことも、継続の一部なのかもしれません。

頑張っている感覚が薄れていく

続けていると、「頑張っている」という感覚は次第に薄れていきます。
それは怠けているからではなく、日常に溶け込んでいくからだと思います。

意識しなくても同じ行動が取れるようになると、達成感よりも自然さが前に出てきます。
この状態は、少し物足りなく感じることもあります。

けれど、無理なく続いているという事実そのものが、今の自分を支えているのだと感じています。

立ち止まらず、急がず

静かな継続には、スピード感がありません。
早く進んでいる実感も、遠くまで来た感覚も薄いです。

それでも、立ち止まっているわけではなく、確実に時間は進んでいます。
急がず、戻りすぎず、その中間を歩いているような感覚です。

たまに振り返ると、以前よりも落ち着いて判断できている自分に気づくことがあります。
それは一日の変化ではなく、積み重なった時間の結果なのだと思います。

静かさの中にある確かさ

再出発の次に来たものが、静かな継続だったこと。
それは少し地味で、語るほどの出来事ではないかもしれません。

それでも、この静けさの中には、確かな手応えがあります。
大きく揺れないこと、極端に傾かないこと。それ自体が、今の自分にとっては意味のある状態です。

これから先も、同じような日が続くかもしれません。
その中で、また迷ったり、立ち止まったりすることもあると思います。

それでも、静かに続いている限り、完全に失うことはない。
今は、そんなふうに感じています。

「安定している今」が、一番油断しやすいと感じた話

静かに始まる「何も起きていない日々」

朝起きて、いつも通りに身支度をして、特別な不調もなく一日が始まる。
そんな日が続くと、人は少しずつ安心します。
私もそうでした。数値が落ち着き、体調も大きく崩れない日々が続くと、心のどこかで「今は大丈夫」という感覚が根を張っていきました。

何かを頑張っている実感が薄れ、代わりに「普通に生活できている」という感覚が前に出てきます。それは決して悪いことではないのですが、同時に、注意深さが少しずつ薄れていくのも事実でした。

数値が語らなくなったこと

HbA1cという数字は、はっきりしています。
高いときは高い、低いときは低い。そこに感情はありません。

けれど、数値が安定してくると、その存在感が急に小さくなります。
以前は結果を見るたびに緊張していたのに、いつの間にか「まあ、前回も大丈夫だったし」と思うようになっていました。

この変化はとても静かで、自分ではなかなか気づけません。
気づいたときには、関心そのものが薄くなっていた、という形で現れます。

「気をつけなくていい」わけではなかった

安定している状態は、努力の結果であることが多いです。
生活の工夫、意識の積み重ね、そのどれもがあってこそ、今があります。

ただ、その努力が「無意識」に近づいてくると、手放してもいいもののように錯覚してしまうことがあります。
私自身、少しだけ食事の間隔を気にしなくなったり、振り返りを後回しにしたりしていました。

大きな変化ではありません。
だからこそ、危うさに気づきにくいのだと思います。

安定は「通過点」にすぎないと感じた瞬間

ある日、ふと立ち止まって考えました。
今の状態は、ゴールなのだろうか、と。

答えはすぐには出ませんでしたが、少なくとも「終わり」ではないと感じました。
安定している今は、通過点の一つであり、流れの途中にある状態なのだと思います。

流れの途中で足を止めると、また別の方向に傾いていくこともあります。
それは誰かに言われたからではなく、自分の感覚として、自然にそう思えました。

油断は、悪意なく忍び寄る

油断という言葉には、どこか怠けている印象があります。
でも実際には、安心の延長線上にあることが多いように感じます。

「何も問題が起きていない」
「前も大丈夫だった」

そうした穏やかな言葉が重なって、注意を少しずつ遠ざけていきます。
その過程には、反省すべき強い出来事はありません。ただ、静かに変化していくだけです。

今を疑うのではなく、見つめ直す

安定している今を否定する必要はないと思っています。
むしろ、ここまで来た自分を認める時間も大切です。

ただ、その上で「今、どう感じているか」「何を考えなくなっているか」を、たまに振り返る。
それだけでも、気持ちは少し引き締まります。

私は最近、数値そのものよりも、自分の関心の向き方を見るようになりました。
どこに注意が向いているのか。それは案外、今の状態をよく映している気がします。

再出発という言葉の意味

再出発というと、大きな決意のように聞こえます。
けれど、私にとっては「姿勢を整え直す」くらいの感覚です。

安定している今だからこそ、改めて立ち位置を確認する。
それは後戻りでも、仕切り直しでもなく、ただの微調整なのだと思います。

静かな日々の中で、少しだけ目を覚ましている。
そのくらいの距離感が、今の私にはちょうどいいのかもしれません。

医師の言葉がなくても、続けられている理由

こんにちは、「糖尿病 HbA1c15.4からの再出発」です。
血糖値に振り回されながらも、自分の身体と向き合い直す日々を、このブログに書いています。

以前の私は、医師の言葉がないと動けない人でした。
「この数値なら大丈夫」「もう少し頑張りましょう」
そう言われて、ようやく一息ついたり、反省したりする。自分の生活は、診察室の中で区切られていた気がします。

通院の間隔が空いて、医師の声が日常から遠のいたとき、正直、少し不安になりました。
誰も軌道修正してくれない。
褒められることも、注意されることもない。
その静けさの中で、「私は続けられるんだろうか」と、何度も自分に問いかけました。

それでも、生活は続いています。
特別に気合を入れているわけでもなく、強い意志を持っているわけでもありません。
ただ、いつもの時間に起きて、食べて、動いて、休む。
その繰り返しが、思った以上に私を支えてくれています。

医師の言葉がなくても続けられている理由は、たぶん「正解」を求めなくなったからです。
以前は、何が正しいか、合っているかを、常に外から確認していました。
今は、「今日はこれでよかったかどうか」を、身体の反応で確かめています。

食後にどっと疲れたら、次は量を少し減らそう。
夜に眠りにくかったら、夕方の過ごし方を見直そう。
そうした調整は、誰かに言われたからではなく、その日の感覚から生まれます。
小さくて、地味で、記録にも残らないような判断です。

HbA1cが15.4だった頃、私は「続ける」ことを、修行のように考えていました。
頑張り続けること、耐えること。
でも今は、続いている理由が少し違います。
無理をすると、すぐに身体に返ってくる。
その分、無理をしない選択が、自然に増えました。

医師の言葉がないからこそ、自分の感覚を疑いすぎないようにもなりました。
完璧じゃなくていい。
毎日同じでなくていい。
続いているかどうかは、結果ではなく、日常の中にあります。

もちろん、医療が不要になったわけではありません。
定期的な通院も、検査も、大切な支えです。
ただ、医師の言葉が「エンジン」ではなく、「確認」になった。
それだけで、生活の重心が、少し自分の側に戻ってきた気がします。

続けられている理由を、きれいな言葉でまとめることはできません。
習慣だったり、怖さだったり、安心感だったり。
いろいろなものが、静かに混ざっています。

今日も特別な励ましはありません。
でも、いつもの夜のルーティンを終えて、布団に入ると、
「まあ、今日も悪くなかったな」と思える瞬間があります。
その感覚がある限り、私はたぶん、これからも続けていくのだと思います🌿

 
 

卒業後も変わらなかった、いつもの夜のルーティン

こんにちは、「糖尿病 HbA1c15.4からの再出発」です。
血糖値に振り回されながらも、自分の身体と向き合い直す日々を、このブログに書いています。

卒業して、生活が少し変わりました。
通う場所が変わり、人との関わり方も変わって、肩書きも一つ外れた。節目らしい節目のはずなのに、夜になると、私の身体はいつも通りの動きを始めます。

夕方、部屋の明かりを少しだけ落として、時計を見る。
「そろそろだな」と思う時間が、自然にやってきます。
特別なことは何もしません。ただ、流れを切らさないように、静かに同じことを繰り返すだけです。

夕食は、派手さのないもの。
量を量って、ゆっくり噛んで、テレビはつけない。
卒業したからといって、ご褒美のような食事に変わるわけでもありません。少し物足りない気もしますが、その「物足りなさ」が、後から身体を楽にしてくれることを、もう知っています。

食後は、短い時間だけ体を動かします。
散歩だったり、部屋の中を行ったり来たりするだけだったり。
「運動」と呼ぶほどのものではなくて、血流を思い出させるための合図のような時間です。これも、卒業前と変わりません。

そのあと、お風呂。
湯気の中で、肩や足の感覚を確かめます。
今日は重いな、とか、意外と軽いな、とか。
数字では測れない部分を、手のひらでなぞるような時間です。

寝る前には、スマホを伏せて、明日のことを考えすぎないようにします。
卒業したんだから次はどうする、ちゃんとできるのか、という考えが頭を出すこともあります。でも、そのたびに、「今は夜だ」と、自分に言い聞かせます。考える時間と、休む時間を、できるだけ混ぜないようにする。それも、長く続けてきたルーティンです。

卒業という言葉には、前に進むイメージがあります。
変わること、切り替わること、新しくなること。
でも私の夜は、変わりませんでした。
むしろ、変えなかった、という感じに近いです。

HbA1cが15.4だった頃の私は、夜が一番不安でした。
一日の結果がすべて自分に返ってくる時間で、反省と後悔が押し寄せてくる。
今の夜は、反省よりも、確認に近いです。
今日の身体はどうだったか。無理はなかったか。
大きな評価ではなく、小さな点検。

卒業しても変わらなかった夜のルーティンは、
私にとって「戻る場所」なのかもしれません。
昼間に何があっても、肩書きが変わっても、
夜になれば、同じ順番で、同じ動作をする。
それだけで、生活の輪郭が保たれます。

変わらないことは、停滞ではない。
今は、そう思えます。
続いているという事実そのものが、
私の身体がここまで来た証のようにも感じられるからです。

今夜も、きっと同じ流れで一日を終えます。
特別な達成感はありませんが、
「今日も戻ってこられたな」という、静かな安心があります🌙